アンチの非日常的日記

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『宗教の見方』人間について考察する際に、人に勧められる本

あなたは「人間」といったものについて、考えるとき、人に勧められる本をお持ちだろうか。

  私には、そんなに多くの本を思い浮かばないが、次の本は自信をもって勧められるものである。レビューについてはアマゾンで書いたので、ここでは補足的なことを書こうと思う。

宗教の見方: 人はなぜ信じるのか宗教の見方: 人はなぜ信じるのか
(2012/09/14)
宇都宮 輝夫

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  昨今の日本で宗教というと、どうも胡散臭さがあるかもしれない。人から金をだまし取ったりする宗教、高尚なことを説きながら乱れた性生活を行う教祖、あるいはイスラームの原理主義。こういった事実を見せられると、宗教とは障害であって、それを信じている人は馬鹿だと思う人も多いだろう。

  しかし、世界的に見て、そのような宗教観を持つのは日本人くらいのものである。実際、日本人にしても、特に神や仏を信じていないというという人でも、葬式をあげないと罰当たりだと思ったり、クリスマスを祝ったり、初詣に行ったりする。自分が信じていないと思っていても、それは信じていると見なされることがあるし、実際には全く信じていないわけではないのである。

  有史以来、宗教や宗教に類するモノほど、人類史にわたって普遍的な精神的事象は稀である。この本は、そういった宗教のことについて、徹底的に、またいろんな角度から思考し分析することを行った書である。

  ここでは仔細を見ることを省くが、一点だけ重要だと思うことを指摘しておこう(それはすべての人間にかかわる問題だからである)。本書の第5章のタイトルは、《信じるとはどういうことか》である。この章の後半では、いわゆる信の構造といったものが取り上げられていると言えるだろう。我々は子供(小学生以下のことを思い浮かべるのが良い)のとき、様々なことを教えられる。教えられることを知として体得するわけだが、そこには先生に対する信頼がなければ、知として成りたたない。換言すれば、先生の言うことをある程度以上確かなものとして信じていないと、知識とはならないのである。先生が言うことがすべて信じられないなら、例えなあそこに走っている赤い車は消防車だよ、と教えたとしても、それは何にもならない。そういった点で、知は信に基づいている。

  また懐疑もある程度の知がないとできない。無から疑うことは生まれないのである。我々は通常、先生を疑うことなく、知識を得ている。もちろん、先生を疑うことがあるかもしれないが、それは親なり別の人なりが、あの人は信頼ならないから疑いなさいという一種の知を教え込まれた場合だけである。そこにも、知があり、また親への信がある。「あの人が言ったことは本当だろうか」と疑うのは、知識を得た後になってからである。そうした点で、知は疑に先行し、信は知に先行するのであるから、信は疑に先行するのである。

  こうした《私たちが一つひとつの学習を通じて形成されていった信念の体系》をウィトゲンシュタインは「世界像」と呼ぶが、どんな場合でも、掘り下げていくとこういった世界像に行きつく。こうした世界像に影響を与えるのが、宗教そのものであり、また色んな習慣である。そうした世界像とは、根拠づけられない最後の砦のようなものである。

  実際、得るものが大きいと思うので、是非手に取って読んでみて欲しい。
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美月先生の『徹底攻略 ネットワークスペシャリスト教科書』

徹底攻略 ネットワークスペシャリスト 教科書 平成25年度 (ITプロ/ITエンジニアのための徹底攻略 Tettei Kouryak)徹底攻略 ネットワークスペシャリスト 教科書 平成25年度 (ITプロ/ITエンジニアのための徹底攻略 Tettei Kouryak)
(2013/02/22)
株式会社わくわくスタディワールド 瀬戸美月

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“和泉のタント”名義でアマゾンにレビューを書いたが、この本の良さについて書ききれていないので、少し補足的なことを書こうかと思います。

*《》で括られているのは、本書からの直接の引用である。

   本書は文字通り、IPAが行っている情報処理技術者試験のネットワークスペシャリスト試験(以下「NW」、と言う)のテキストである。情報処理技術者試験の本では、一般的にはテキストと問題集が分かれる傾向にあるが、本書は両者が一体となっており、本書を用いることで、INPUT(学ぶこと)とOUTPUT(問題をやること)とをバランス良く行うことが出来る。とはいえ、本書だけではNWの過去問を少ししかできないので、その他の問題集(たとえば「ネスぺ23 本物のネットワークスペシャリストになるための最も詳しい過去問解説と合格のコツ」や各種過去問題集など)で補う必要はある。過去問演習は最低3~4年分はこなしておいたほうがよいというのが、NWの心得みたいなものなので、それはきっちりこなした方がよいだろう。

  さて、NWを勉強する上で、最も役に立つのは《実務だけではなかなか身につかない、プロトコルなどの仕組みやネットワークの原理に関する知識を得ることができるので、業務でも応用がきくように》なること、である。合格率は決して高い試験ではないので、やみくもに勉強しても通る試験ではない。本書では、合格のポイントとしてNWを受ける上での必要なことが触れられている。《自分の現状を見て、ゴールまでに必要な勉強を考え、それを実践していく》ことができれば、合格は近い。シラバス等だけ見ると、試験範囲が広すぎて嫌になるが、本書では出題傾向に合わせて整理してくれているので、そんなことはなくなった。

  今までのNW対策本は、INPUTするための知識が古すぎたり、情報量が少なすぎたりして、初学者向けのものが余りなかった。本書はそうした状況を打破する力作である。たとえばベーシック手順やHDLC手順といった、古典的な論点には触れていない。確かに午前問題での出題可能性はなきにしもあらずだが、午後試験で問われることがないので、今では使われていないプロトコルの知識などはばっさり切り捨ててくれている。また、詳しすぎず、なおかつ略しすぎず、試験に必要な知識などを整理してくれていて、利用者が辞典的に使うのにも便利な索引ももちろんついている。

  ただ、一つ補足して言えば、わかりやすくしているので、プロトコルの詳細な知識まで書ききれていないので、プロトコルの基礎的な部分は本書で確認して、詳しいところはネットや他の書籍を活用して知るのが良いだろう。そのためには「マスタリングTCP/IP 入門編 第5版」等の書籍が役立つと思う。

 情報処理技術者試験を受けるメリットなどについてもまた書きたいと思う。

デュルケームの人と業績

私が尊敬する社会学者であるエミール・デュルケムについて少し載せてみようと思います。

 エミール・デュルケームは1858年4月15日、フランスのロレーヌ地方にて生まれる。デュルケームが成人するころ、1880年ごろから全ヨーロッパにて反ユダヤ人運動が広まった。それは、ユダヤ人が金権政治の擁護者と考えられたためである。

 高等師範学校(エコール・ノルマル)時代、デュルケームは「メタフィジシャン」(哲学者・形而上学者)とあだ名され、理屈を通すまじめな学生として知られた。リセで哲学教師を務めた後、1887年にボルドー大学講師、1896年には同大学にてフランス最初の社会学講座が設けられた。デュルケームはすぐれた教師であるとともに、研究者としても名声が高かった。1898年に雑誌『社会学年報』が創刊され、デュルケームと彼に共鳴する考えをもつ仲間が集い、「社会学主義」を実践した。1902年にはパリ大学ソルボンヌ校に移った。
 デュルケームは政治論争には参加しなかったが、フランス第三共和国のさまざまな欠陥の改善に心をとめる。アノミー状態を修正するための社会統制の必要性を強調し、国家と個々人の間の中間団体・中間組織の強化を目指したのであった。換言すれば、結社の自由の回復を図ったともいえよう。

 以下にデュルケームの4つの主著を取り上げ、概要を見てみる。

社会分業論
  『社会分業論』は当時の学界で支配的だった「進化」の思想に従い、社会の連帯組織・統合原理に関する一種の発展段階説を展開したものである。デュルケームによると、人間社会は前近代的時代における「環節的社会」から近代的な高度文明社会(=「組織的社会」)へと発展するのである。「環節的社会」においては「機械的連帯」が重視され、相互に類似した氏族の連結が統合原理であり、また血縁や地縁によって互いに結ばれ、伝統が行動を支配している。「文明社会(=組織的社会)」においては有機的連帯が重視され、自由な個人としてそれぞれ異なる職能を営むようになる(分業の発達)。

 この発展段階説を明らかにすることによって、デュルケームは「道徳の科学」(=社会学)を樹立させようとする狙いがあった。デュルケームによると道徳とは実現ずみの諸事実の一体系かつ世界の全体系に結びつけたものである。すなわち道徳的実在とはまさしく社会のことであり、彼は社会学の確立を本書で図ったのであった。

社会学的方法の規準
 デュルケームによれば、社会学は客観的で冷厳なあらゆる価値判断から離れた学問でなければならない。まず社会学における認識態度として、あらゆる社会現象を「物として」見る必要がある。
 社会学が取り扱う社会的事実とはもろもろの「制度」であり、制度は個人意識に対して外在的かつ個人意識に対して拘束力を持つ「行動あるいは思考の様式」である。そうした制度としての社会的事実には、「正常的」と「病理的」の区別があり、病理的とはある社会にとって例外的であり、その社会の存続にとって危険な現象のことを指す。
 社会的事実の説明は社会学的になされるべきで、心理学的に説明すべきではなく、その方法としては「比較的方法」(=「共変法」)を用いるべきであるとデュルケームは考えた。

宗教生活の原初形態
 本書はオーストラリアのトーテム信仰に関するデータを用いながら、宗教の本質と宗教の起源および機能を論じたものである。
 デュルケームによれば、宗教の本質はいっさいの自称を「聖」と「俗」の2つのカテゴリーに区分し、聖なるものにたいする信仰および行事に関する特別の社会集団を形成するところにあるという(聖俗二元論)。魔術は、上記の特別な社会集団を作る共同社会と信者の統合体を欠いている。
 宗教は人々の共同生活を規制し、彼らに道徳的な価値基準を与えるゆえに(=社会的機能ゆえに)発生し、また存続した。デュルケームによれば神もまた社会の産物だという。

自殺論
 本書は社会学的方法を用いて自殺に関する独特の理論を展開し、社会学的方法の独自性とその適用の有効性を学界に知らしめることをめざしたものである。
 従来、自殺傾向の社会による違いは非社会的要因が考えられてきたが、デュルケームによればそれは誤りか不十分である。自殺という現象を正しく十分に説明するには、社会的要因による社会学的説明が必要である。自殺はそれを引き起こす社会的要因によって三つのタイプに区別される。

1.自己本位的自殺
 自殺者が属している社会集団の凝集性が弱く、その内面的な結束力が弛緩している場合に生じる自殺の形態を自己本位的自殺と呼び、社会集団の凝集性の強弱による自殺率も変動する。
例:A 信仰集団→成員個々人に対する統制力や集団としての結束力はカトリックの法が大きく、プロテスタントよりも自殺は少なくなる。宗教自体が一つの社会であり、そのすべての信者に共通の嗜好や儀礼が多く、また強いほど宗教的共同体も緊密に統合され、それだけ自殺の抑止力も強い。
B 家族集団→家族集団の密度が高くなるにつれ自殺率は減少
C 政治社会→大戦争の際の自殺率の減少など。社会的激動の際には政治社会の凝集力は増大し、さまざまな活動が同じ一つの目的に向かって集中され、一時的にきわめて強固な社会的統合が実現する。

2.集団本位的自殺
 自殺者の属する社会集団の凝集性や統制力があまりに強く、その集団に対する一体感や帰属性の度合があまりにも強いために起こる自殺の形態を集団本位的自殺と呼ぶ。その成員が自己没却的であればあるほど自殺は多くなる。
例:未開社会の成員がその集団の名誉のために戦死すること。また軍人や兵士の名誉の死というものもこれにあたる。

3.アノミー的自殺
 ある社会が突然の機器に見舞われ、アノミー=無規制状態に陥った場合に起こる自殺の形態をアノミー的自殺という。アノミー(anomie)とは元来「神の法の無視」という意味のギリシャ語で、デュルケームが社会学用語として復活させたものである。
 社会的無規制のゆえに過度に肥大した人々の欲求が危機的状態に直面して不意に満たされなくなったために起こる狂気じみた焦燥や激しい憤怒が動機となって引き起こされる自殺である。
例:アノミーが慢性的に起こっている当時の商工業界

※宿命的自殺
 過度の規制から生じる自殺であり、無常にも未来を閉ざされた人々のはかる自殺を宿命的自殺と呼ぶ。極度の物質的・精神的独裁の横暴を原因とするようなすべての自殺。デュルケームはこのタイプの自殺の例を引き出すことは難しいと判断し、検討する必要がないとした。(述べられているのも本文中ではなく脚注)

 次に自殺の複合形態について述べる。

<自殺の混合タイプ>

 ④自己本位的・アノミー的自殺…よく見られる。失望が興奮と、夢想が行動と、欲望の狂奔が憂鬱な瞑想と交互にかわるがわる現れる。

 ⑤アノミー的・集団本位的自殺…同じ一つの危機が人々の生活を混乱に陥れるとともに彼らの集団本位的傾向を刺激することによって引き起こされる。
(例:エルサレム陥落の際に一段となって自殺を遂げたユダヤ人の場合)

 ⑥自己・集団本位的自殺…現実世界では個人主義、理想的な対象に関する限り集団本位主義者の遂げる自殺。
(例:ストア主義者の自殺)

 ●自殺はどの社会でも見出されるという意味で「正常的」な現象といえる。だが、社会の構造が変わらないのに自殺率・犯罪率が急増加するのは「病理的」な現象である。この「病理的」状態を改善して正常的状態に戻すことがデュルケムの意図したところでもある。

 その対処法は?
A 罰則→自殺の潮流は変えきれない
B 教育→教育は社会の反映にすぎないのであまり期待できない
C より強力な連帯性を作り出す→根源に遡っているので効果は期待できる。ただ、政治集団や家族集団ではなく、職能集団の再建と強化およびギルドの有した諸弊害近代化・公的機関化こそ必要であると説いた

<自殺論に対する批判>
・社会的要因を強調するあまり、個人的・心理的要因を閉却している。自殺に個人的要因が絡むのは否定しがたい。
・模倣により自殺が広まるとは言いがたいのは確かだが、模倣が同じ社会に属する人々に悪影響、一種の伝染的作用を及ぼすことんは認められるのではないか。
・貧困が自殺に対する一種の免疫となるという考え方には賛同しがたい
・同業組合、職業集団の再建や強化について、具体的な問題(労使・紛争)を考慮に入れながら入念に議論をすべきだったのでは。

エミール・デュルケムは社会学者として活動したが、後世の人類学・民族学・宗教学にも大きな影響を及ぼした。そのことについてもまた書けたら書こうと思う。

書評『フーコー入門』(中山元)

フーコー入門 (ちくま新書)フーコー入門 (ちくま新書)
(1996/06)
中山 元

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 本書はフーコーの考えを、フーコーの生き方とともになぞるものである。フーコーは前期と後期で考えが変わった、などと批判されることがあるが、フーコーの考え全体に一貫したものが読み取れる、と著者はいう。
 《「わたしが試みているのは、診断すること、現在の診断を実行することです。それは現在の<われわれ>とはどのようなものであるか、現在われわれが語ることには、どのような意味があるかを明らかにすることです」》とフーコーは語る。その意味で、フーコーは<現在>の哲学者であった。これがフーコーの思考の根底にある考えである。
 フーコーの用いる方法で特に重要なのは、考古学と系譜学と呼ばれる二つの方法である。考古学(アルケオロジー)とは「われわれの足元を掘り下げること」であり、系譜学という方法では《知の客体の歴史ではなく、知の主体の歴史性を問おうとする》のである。
 個人的にもっとも印象に残ったのは、第四章「真理への意志」である。フーコーは権力を外から見るのではなく、その《主体の内部から、現実的なものを生み出している力》として理解する必要があると考えた。パノプティコン(一望監視装置)の原理が現代社会の至るところに行き渡っているという指摘は、意味深い。パノプティコンとは、ベンサムが考案した監獄のモデルのことで、中央に監視塔があり、その周辺に監獄が配置されているものである。《重要なのは、この装置では、中央の監視塔に監視者が常駐している必要がないことである。監視される者の心の内側に、第二の監視者が生まれる》のであり、《「権力を自動的なものとし、没個人化する」装置である》。そしてパノプティコンは個人の欲望を取り去り、《道徳的な主体、服従する主体としての個人》を作り出す。ここでは魂が身体の牢獄となる。近代社会は監獄という監視装置をモデルにして、工場や学校、病院といったものが作られた。そうした意味で近代社会は監視社会なのであり、そうした原理が行き渡った学校で主体の形成の技術である試験が行われ、真理を教えつける構造となっている。
 《人々が真理だと信じているものが、実は歴史的な根拠から作り上げられたものにすぎず、普遍的なものでも、絶対的に正しいものでもないということを示すことによって、自明で見慣れたものと考えられていたものを覆すこと、これはフーコーの終生の課題であった》。ニーチェの批判的精神を20世紀においで受け継ぎ、発展させた思想家、それがフーコーであると感じた。
 全体的にフーコーの用語がたくさん出てきて、その用語を整理するのが少し大変だが、用語の意味は本文中におさえられているので、それをきっちり抑えておけば平易に読めるようになっている。難解なフーコーの思想をよくほぐして、わかりやすく書かれている。著者はわかりやすい翻訳を出すことで有名だが、この本もその点では変わりなく、読んで良かったと思った。フーコーの著作を読む前に一読しておくとだいぶ概観が掴めてよいだろう。

本に印刷された活字と、インターネットで見る文字との相互の利点と欠点についての考察。

だいぶ昔の考察でお恥ずかしいのだが、ちょっと載せてみた。

本に印刷された活字と、インターネットで見る文字との相互の利点と欠点についての考察。

 若者の活字離れが嘆かれて、幾年経つだろうか。活字離れとは何か、そこにインターネットはどう関わってくるのか、少し考察してみたい。
 そもそも、私も数年前まではほとんど活字の本といったものに触れることはなかった。せいぜい、三国志を読んだり、戦争シミュレーションゲームの攻略本を読むくらいで、文庫や新書など、手に取っても読む気にもなれなかった。インターネットで情報を得ることで、大体のことは事足りるし、必要な時だけ本を手に取ればいいから、普段から本なんて読む必要なんてないだろ。そういった思考をしていた。
 しかし、此処1年ほどで文庫を中心に様々な書に触れるようになって、其の考えの愚かさを知った。インターネットで手に入れられる情報は、酷く断片的でまた恣意的な曲解が非常に多いと思われるのである。
 確かに、インターネットでもニュースサイトやウィキペディア・辞書等、便利なページはたくさんある。私も現在でも、まるまるサイトから引用することはないにせよ、よく参照させてもらう。サイトでは、[特に公共的サイト(ニュースサイトやwikipedia)では、]扱われる物事をわかりやすく解説しているか、[特に個人的サイト(個人のホームページやブログ等)では]自分の考えを含めて扱われている事物を解説しようとする。利用価値がまったくないとはいえない。むしろ、ネット不要論者が言うようにくず情報ばかり集まっているわけではなく、かなりまっとうな意見を述べているサイトや参考になるサイトも多々あるように思われる。が、大半の個人的サイトでは其の考えについての根拠[出典・誰々の考え]などが示されていることはあまりなく、あったとしても局所的に取り出して拡大解釈や縮小解釈をしているような明らかな論理の飛躍があるものが多いのもまた確かであろう。自分がそこで扱われる情報についてある程度精通しているならまだしも、ほとんど聞いたこともない事柄なら、そこで書かれる情報を鵜呑みにしてしまう危険性が高い。
 対して書籍は、著者の意見が偏っていない場合は、大抵上記に上げたネットの危険性に陥ることは少ない。もちろん、書籍では全く誤謬がないというわけではない。どんな人間でも、間違いを探せばどこかにあることは当然であるが、本を出版できる程の著者は、すべてが信じられるわけではないにしろ、出版社の編集等を通すことを加え、考証を踏んでいる場合が多いのも事実である。ネットではこのような考証を踏むことはせずとも文字情報を発信できる。その気軽さは利点とはなりえるが、情報の信頼度という点においてはむしろ欠点といえよう。
 あんまり文章でだらだら書いても読む気が失せるので、少しまとめてみよう。上に書いたことばかりではなく、小さな利点等も付加した。

書籍の利点
主題に対する考証を踏まえ、其の典拠も示されている。それ故、論理が錯綜することも少なく、その書を考える際にどのような書を読めば良いかが明確にわかることが多い。最後まで読みきることで著書の姿勢ということも理解できる。
紙媒体に印字されているので、傍線や余白に自分なりの注釈・気になったメモをそこにすぐに書き込める。

書籍の欠点
どのような考証を経ていようと、其の典拠が確かなものでないと信用できない。其の点はネットと同じであり、また曲解等も十分にあり得る。信用できるかできないかの最終的判断は結局自分が下すしかないが、どのような欠点があろうともまとまっていることも確か。
紙媒体ゆえ、持ち運びが不便、かつ劣化する。


ネットの利点
情報の検索性が圧倒的に早い。書き手も読み手も手軽。コメント機能などで情報の双発信が出来る。
一度書き込んでしまえば、その情報はかなり先まで残る。データの持ち運びが便利。

ネットの欠点
考証が踏まれていることが少ない。典拠も示されることが少なく、見るべき点を見ていないものが多い。断片的、まとまりに欠ける。
改竄のおそれ、他人に引用されてもわからないこと。


 ここでは上記のように利点と欠点を少し捉えてみたが、結局のところ、書籍でもネットでも信頼できる情報かできない情報かは、自分が判断するしかない。青空文庫などはやはり価値が高く、それを印字することである程度本に近づけることは出来るし、ウィキペディアでも記事によっては信頼できる書籍等から記事をまとめていることも多い。また、海外の哲学辞典や学問辞典は活字版となんら差異ないことも多々在り、そういった情報も有用である。ただ、何事にしてもすべてが信頼できる情報であると捉えたり、すべてが取るに足らないことしか書いていない、と判断してはならない。何事も工夫次第で、情報を有用に利用できるかできないかは決まってくるのである。ただ、書籍では多少なりとも信頼が置きやすいということ、ネットでは双方向コミュニケーションが取りうるというそれぞれの利点があることは間違いなく、そういったことから自分にとってどちらも使いこなせるようにするのが最も賢い立場であることは間違いないだろう。
 活字離れの欠点は、まさにその書籍の有用性を捉え切れていない点にあるといわざるを得ない。ただ、ここでは其の解決策を述べたわけではないので、其のことについてはおいおい別の要素を加え、考えたい。

言語と貨幣の類似点

丸山圭三郎著『文化=記号のブラックホール』Ⅱ言語と貨幣のフェティシズムより

 貨幣は二つの点で言語に非常に良く似た側面を持っている。
①材質とは無縁の、ある価値を持っている
 貨幣は額面表示が材質の重さや価値に比例しているわけではない。預金通貨の形になれば、ほとんど物質性がなくなってしまうが、その経済的な交換価値はかえって大きい。
 貨幣とは「あるモノを指し示すモノ」と考えられる。
 言語も「何かあるモノや何かある観念を指し示すモノだ」と考えられている。言語もまた貨幣と同様にそれ自身の材質とは関わりなく、もともと世の中に存在するモノを写しとるコピーとして、本物とは別の種類のモノであるかのように考えられている。

②「メタ的な性格」を持っている
 言語の「メタ的な性格」とは、似ても似つかない二つのモノの「実質的な際を、言葉の構造的な同一性によってくくること」である(例:私の「足」とテーブルの「足」という実質的にまったく異なるものでさえ一つの抽象的な集合「足」としてくくってしまう)。世の中にあるモノをグループ分けしていく、網の目によってくくっていく性格。
 貨幣の「メタ的な性格」とは、モノとモノとの差異を同一化する力を持っているということ(マルクスの例え:動物という概念はライオンやトラやニワトリをひとまとめにしたグループの名前であり、メタ的なグループの名前である。そして、市場経済において、貨幣が他のさまざまな商品に混じってやり取りされている様子は、ちょうど、ライオンやトラやニワトリに混じって「動物」が歩き回っているようなものである)。

 これら二つの特徴は、言語や貨幣に限らず、「記号」というものすべてに共通する性格。
 「記号とは、何かあるモノ(本物)を指し示すモノだ」という考え方は、物象化の錯視に陥っている。記号は、その記号が属する領域の「関係性の網目」が織りなす一つの結節点にすぎず、何も指し示していない。

「近代のルネサンス概念の発展」(トレルチ)

19世紀にルネサンスが発見されたのは、19世紀の精神史と直接関係がある、とトレルチは指摘します。つまり《近代的生それ自身は、合理主義、機会主義、そして個人主義的懐疑主義、の手中に帰した》ので、失われた生を取り戻すためにルネサンスが着目されたというわけなのです。
  前の日記でも述べたとおり、ルネサンスという運動は、芸術的貴族主義(既存権力との迎合関係にあるという意味)なのでした。庶民に普及したわけではなく、《この英雄主義は、[中略]決して時代の歴史的特性を示すようなものではない》のです。トレルチが言う《独特の脆弱さ》、つまりルネサンスは不安定さがその特徴です。
  啓蒙主義はルネサンスの精神を受け継ぎつつも、全く違うものとなりました。啓蒙主義は権力迎合的なものではなく、いわば権力から個人の自由を勝ち取るという点で、宗教改革の精神を受け継ぐものでした。こうした話が多分、次の論文で展開されるのだと思います。「啓蒙主義」という論文です。

本文に出てくる《》の中の引用は トレルチ『ルネサンスと宗教改革 (岩波文庫)』(内田芳明訳)からです。

トレルチ『ルネサンスと宗教改革』

「ルネサンス」と「宗教改革」、これらはほぼ同時に現れ、双方とも国家から個人の自由を獲得する個人主義を推し進め、近代精神への道を用意したものである、と考えられている。ルネサンスと宗教改革は、いわば世俗的ルネサンスと宗教的ルネサンスというわけである。
  こういった考え方に「待った!」をかけるのが、トレルチです。そういういった考え方は妥当に見えるが、実際の中身を見たらかなり違うといわざるを得ないというのです。
  ニーチェはルネサンスと宗教改革について、『反キリスト』の中でたしか次のように言ってたように思います。ルネサンスは中世の世界で閉じ込められていた生を、まさに解放し、躍動させる力を持ったすばらしいものである。対して、宗教改革はそのルネサンスの力を殺し、再びキリスト教的生の抑圧を導いた悪しきものだ。このように言っていたように思います*1。こういった見方からすれば、宗教改革とルネサンスは対立するもので、最終的には宗教改革的性格をより純化した啓蒙主義といったものが(ニーチェから見れば嘆くべきことなのかもしれませんが)勝利をおさめたと、ニーチェは考えていたといってもいいと思います。
  さて、そのような先例はあったわけですが、トレルチはどうなのでしょうか。簡単に見ていきましょう。彼は「ルネサンスの精神」と「宗教改革の精神」というものを考えています。それは、ヴェーバーのいう理念型(*2)に近いものなのかもしれません。「ルネサンスの精神」とは、《徹頭徹尾自己に依存する個人主義なのであって万人に共通する自主独立の自我というものを展開することであり、また地上の事物は天上からの投影であって無価値だとするような見方からの解放》と言っていいでしょう。噛み砕いて言うと、その個人主義は自分だけをみるもので、その自我を芸術や学問などの形で展開し、中世的な世界からの解放にあるのです。だがしかし、この個人主義は宗教改革の個人主義とは違います。(先取りしちゃいますが)宗教改革の個人主義は、国家から信仰の自由を勝ち取り、その中で宗教生活を実践するのに対して、あくまでもルネサンスの個人主義は、国家や大商人という既存の権力の庇護のもとで、古代世界の憧憬を仰ぎ見つつ、行われるのに過ぎないのです。その印として、主にルネサンスは(英国も含めた)カトリック的文化圏で既存権力と迎合する形で広まったのです。
  それに対して「宗教改革の精神」とはなんでしょうか。それは、徹底的な《聖書主義》にあります。そして宗教改革は、《聖書と聖書の言葉とから、教会という救済施設をば、客観的な言葉とサクラメントとにもとづいて建設された可視的な制度として、再建したのです》。今さっき出た個人主義ですが、その深み、という点ではルネサンスのほうが深いといえるかもしれません。なぜかというと、ルネサンスの個人主義は中世的呪縛から精神を解放し、新たな思想を次々生み出したといえるからです。それに対して、宗教改革の個人主義は、あくまでもそれまでのカトリック的集団主義に対して、相対的に個人主義であるにすぎないのです。ですが、直接的に社会を動かす力は、宗教改革のほうが大きかったといわざるを得ません。宗教改革は新たな国民教会を作り出し、絶対主義を宗教的に聖別しました。対して、ルネサンスは社会を直接動かすものではなかったです。ルネサンスは教養貴族政治とサロンをつくるだけでなく、権力に臣従するからです。また、宗教改革が起こった地域では、ルネサンス文化が普及したあとはほとんど見られませんでした。
  このようにこの二つは対立したものなのです。トレルチは、宗教改革がルネサンスと比べてはるかに強力な社会学的力を持っていたので、宗教改革が勝利したといいます。ですが、時代が過ぎるにつれて、ルネサンスと宗教改革は啓蒙主義、あるいは新プロテスタンティズムという形で融合を果たした、といいます。宗教改革が勝利したとはいえ、ルネサンスの精神は消え去ったわけではなかったのです。この融合は、いわば両者の妥協の結果であって、それを乗り越えるべきものではなかった、という点に注目する必要があります。近代ヨーロッパの源泉であるルネサンスと宗教改革の二つは融合されたとはいえ、本来的に異質なものだから、(トレルチが生きた意味での)現代においても根源的対立をなしている、とトレルチは述べています。
  私の把握ではだいたいの流れはこういったものだと思います。たしかに両者の特徴を鑑みるに、そのように言えるように思います。ですが、現在の日本の教育では、両者の共通点を見るだけで、その中身を見ていないような気がしてなりません。そのことについてもいずれまた考えられたらいいかな、と思います。次はこの論文の附論「近代のルネサンスの概念の発展」について、書こうかと思っています。


 フーコーは、ルネサンスと宗教改革のどちらの精神性も中世に属するもので、それらの時代は「類似の世界」だったといっています(『言葉と物』)。ここでは細部に立ち入りませんが、ルネサンスと宗教改革の時代に生きた当人たちの認識が依然中世人のままだった、というのは心に留めておく必要があると思います。たしか、クリアーノ(*3)もルネサンス人の考えは中世人そのものだったと言っていました(『ルネサンスのエロスと魔術』)。
  ただし、その当人たちが旧世代に属しているといっても、その意図せざる影響が近世、近代を形作ったというのは否定できないでしょう。
  ニーチェやクリアーノは、ルネサンスと宗教改革については、ルネサンスにより評価を高くおいています。ニーチェの場合は生の地位向上が、クリアーノの場合はグノーシス主義勃興を特に評価しているように思います。ですが、結局ルネサンスは宗教改革の前に敗れ去り、その後の世界の行く先を案じていたります。
  トレルチは、両者は融合を果たしたとはいえ、それぞれの異質性が現代にも受け継がれているといいます。それが《預言者的・キリスト教的な宗教世界からと古代の精神文化からとに由来する根源的対立》です。キルケゴールも両者のどちらを取るべきか、葛藤に悩んだこともあるようですが、最終的には宗教改革の精神をより鋭い形で、デンマーク国教会に注入しようとしたのでした。それで散々叩かれたわけですが、現在では彼の思想が大きく取り上げられるところに歴史の皮肉を感じたりもしますね。


ちなみに本文に出てくる《》の中の引用は トレルチ『ルネサンスと宗教改革 (岩波文庫)』(内田芳明訳)からです。


*1 ニーチェにとっては、人間が本来持つ生の力を抑える要因は何であれ悪く捉えられたので、このような結論になったのも仕方ないように思えます。ニーチェは倫理というものをすべて否定するわけではありませんが、奴隷道徳というものを特に嫌いました。奴隷道徳とは、簡単にいうと、本来のあり方を価値顛倒させることで、奴隷(弱者)に勝利をもたらす道徳のことです。ここでは深く立ち入ることはしませんが、生を高めるありかたから、生を低めるありかたをする考え方は、キリスト教道徳に見られるので、ルネサンスが高めた生を否定するルターはニーチェからすれば嫌悪すべきものだったわけでしょう。
*2 理念型とは、ヴェーバーの用語で、「現実には存在しないかもしれないが、理論的枠組みにおいて、当該社会の論理的な典型」です。簡単にいえば、他の社会と比較した際にその社会に現れる特徴の集合体です。
*3 ルーマニア生まれの宗教学者。最後は暗殺される。

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