アンチの非日常的日記

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考察のメモ~キルケゴールの弁証法と実存と瞬間

キルケゴール弁証法と実存と瞬間
キルケゴールにおける実存と瞬間について。

キルケゴールの質的弁証法はヘーゲルの弁証法とは違う、というのはキルケゴール自身が言った通りではあるが、どのように違うのか。キルケゴールはいう。ヘーゲルの「あれも、これも」の弁証法は、概念の世界でしか通用しないものであって、現実の世界、すなわち人間の実存の世界では意味をなさない。むしろ、実存の世界においては、「あれか、これか」の決断が必要であり、そのどちらかを選びとることしかできないのだ、と。

しかしでもこれだけではよくわからない。これをよくわかるようにするには、「瞬間」という言葉を理解しなければならない。瞬間とは、刹那(せつな)と呼ばれることもあるが、人間が生きているひと時、ほんの短い時間を指す言葉である。どんな生き方・選択をするにせよ、時間は流れる。しかし、そこには無限と思えるほどの「瞬間」が存在して、人間はそのときに何か感じたり思ったりするのである。

ここで「あれか、これか」の弁証法の話に戻るが、次のことをよく考えて欲しい。人がある決断をしたとしよう。その決断は、まさしく「あれか、これか」と二者択一で行われる。では、決断した瞬間においては、少なくとも「どちらも」取ることはできるであろうか。もちろん、答えはノーである。「あれか、これか」の二者択一の弁証法は、たとえばキルケゴールの思想上の処女作『あれか、これか』では審美的生き方〔選択〕と倫理的生き方〔選択〕の二つを絶えず選択しないといけないことなどにも現れてくる。審美的生き方とは、ドンファンのような、自身の快楽を求めて生活を行うことである。対して、倫理的生き方とは、理性的生き方と言い換えることができ、道徳的規準などに適った生活を行うことである。ただし、キルケゴールは、人間がこの二つの段階のどちらかに固定的に偏ることはなく、ある「瞬間」においては常にどちらかを選択しなければならない、ということを自覚している。

ヘーゲルにおいては、実存の世界であろうと理念上の話であろうと、下位の概念すべては上位の概念に集約され、発展を遂げていく、と考えられている。また実存の世界においても、その生き方を包括的、全体的に見るのならば、最終的な結果としてヘーゲルの弁証法がなしえたか、そうでないかで判断することはある程度可能である。しかし、実存とは、人間が感じ考える際の、その都度その都度の瞬間と切って切り離せないものである。人間の生き方といっても、幼少のころに考えたことと壮年期に考えることとでは違いがあるのは誰にとってもわかるだろう。ヘーゲルは全体性を重視し、体系の構築と行ったものを行おうと心掛けた。キルケゴールが、ヘーゲルの弟子でありながらヘーゲルをもっとも批判するのはこの点である。人間の生き方とは、瞬間という一種の時間のアトムの無限な集まりであり、それはちょうど断片の集積のようなものである。それを、全体的に見て、あるいは一部だけを見て、その人自身であると評価するなら、なんと間違ったものになるか。もちろん、我々人間は自分自身のことですら、その無限に近い瞬間を覚えておくことはできないし、そのことは他人にはまして不可能である。ある偉大な事績がある人物とは、その人物のある瞬間の決断があって、はじめて成り立つ。だが、それだけがその人の生き方かというとそんなわけはない、ということだ。

そして、たとえばキルケゴールが考えた審美的な生き方と倫理的な生き方もまた、常に一貫してそうみなされているわけではなくて、その瞬間ごとに、どちらか二つの選択がなされて行われているのである。

キルケゴールの弁証法の側面を少しだけ考えてみた。
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