アンチの非日常的日記

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電卓(SHARP EL-G37とCanon HS-1220TUG)

電卓

長らく使っていた電卓を買い換えました。今まで使っていたのが右の電卓、Canon製のHS-1220TUGです。新しく買ったのは左の電卓、SHARP製のEL-G37です。

HS-1220TUGは、ボタンが大きく、機能(GTや時間計算・税込/税抜、千万ボタン等)が多くついている割に安価なのが特徴です。ただし、弱点としてサイレント機能なのがついていないので、叩いていると結構大きな音がする点などが挙げられます。

Canon 電卓 HS-1220TUG SOB 12桁 グリーン購入法適合 千万単位表示 時間計算付 税計算可 卓上タイプCanon 電卓 HS-1220TUG SOB 12桁 グリーン購入法適合 千万単位表示 時間計算付 税計算可 卓上タイプ
(2011/11/24)
キヤノン

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定価は5,250円なのですが、Amazonで1,500円を切って売っており(お買い得ではありますね)、簿記の有名サイトでもお勧め電卓として挙げられていたので、今まではこれを使っていました。RM/CMボタンが一つになっている以外は、機能的に困ることはほとんどありませんでした。今さっきも書きましたけど、音がうるさい点以外は概ね合格点です。


買い替えたのは次の電卓です。学校向けにしか販売してないので、ネットで買えるのはTACとネットスクールくらいです。

SHARP EL-G37

ちょっと高めではあるのですが、サイレント機能付なのが良いです。ボタンもちょうどよい大きさで、スリムです。CMとRMキーが分かれているので、計算途中にCMしたりすることも可能です。弱点は税込/税抜機能がついてないことくらい。買って良かったです。

どちらの電卓も、電池が自分で入れ替えられるようになっている点は、ほかの電卓と比べて優れています。

新しく電卓も買い替えたので、新しい目標に向かって頑張ろうと思います。

M.Weber『宗教社会学論選』1 『宗教社会学論集 序言』について

※《》は本書からの抜粋である
『宗教社会学論集 序言』

宗教社会学論選宗教社会学論選
(1972/10/25)
マックス・ヴェーバー

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 近代、あるいは現代社会学の創成期に活躍したM.ヴェーバーの代表作と言えば、やはり『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(以下、『倫理と精神』という)が挙げられるだろう。本書は『宗教社会学論集』(以下、『論集』という)の抜粋だが、『倫理と精神』は『論集』の最初に収められている論文である。『序言』はヴェーバーの問題意識、つまり何に重点を置いて自身の研究としたかを知るうえで重要な事柄がたくさん載っており、できるならば、『倫理と精神』の読了以前に読むのが良いだろう。この『序言』で個人的に重要と思われた部分を拾い読みしていきたいと思う。

 さて、ヴェーバーは次の言葉で『序言』を始める。《近代ヨーロッパの文化世界に生を享けた者が普遍史的な諸問題を取扱おうとするばあい、彼は必然的に、(中略)次のような問題の立て方をするであろう。いったい、どのような諸事情の連鎖が存在したために、他ならぬ西洋という地盤において、またそこにおいてのみ、普遍的な意義と妥当性をもつような発展傾向を取る(中略)文化的現象が姿を現すようになったか、と》。つまり、西洋に生まれた人間が世界史の問題を考える上で、何故西洋だけが発展している(ように思える)のか、その成立事情の連鎖とはいかなるものか、ということである。ヴェーバーは学問や芸術、建築、メディア、法治制度において西洋以外の諸文化には欠けている概念があると断言する。それは徹底的な”合理化”である。合理化の萌芽は西洋社会以外の社会でも観察できるが、それが(特に形式的な)合理主義という形を取るのは西洋だけであった。

 ところで、《近代西洋においてわれわれの生活を支配しつつあるもっとも運命的な力は、いうまでもなく資本主義であるが、この資本主義についても事情はまったく同様》だ、とヴェーバーは言う。同様だということは、ここにも徹底した合理化が行われていなければならない。ここでいう資本主義とは、単なる《営利衝動》、《利潤の追求》だけを指すのではない。《資本主義は、むしろ、そうした非合理的な衝動の抑制、少なくともその合理的な調整とまさしく同一視》される場合もある。ここでヴェーバーは仔細に触れていないが、これはまさしくプロテスタンティズムの積極的禁欲という倫理から、資本主義の精神というものが育まれた事実を示唆するものである。

 利潤の追求を行うだけが資本主義ではないとすれば何が資本主義なのか。ヴェーバーは次のように定義する。《資本主義的経済行為とは、(中略)交換の可能性を利用しつくすことによって利潤の獲得を期待する、そうしたところに成り立つような、したがって(形式的には)平和な営利の可能性の上に成り立つような行為》だという。ヴェーバー特有の周りくどい言い回しで分かりにくいが、経済的価値のついた付加物を新たな経済的価値と交換し続けることにより、利潤の期待された成果が確定する(*1)経済行為である。形式的に平和な営利とは、つまり、戦争や暴力行為による略奪を意図するものではなく、少なくとも一旦は双方が合意して商売が成り立つような条件のことだろう。

 ヴェーバーはさらに続ける。《資本主義的な営利が合理的な仕方でおこなわれているばあいには、それに照応する行為も資本計算を志向するようなものとなる》。ここでいう資本計算とは今日でいう利益計算のことであるが、ヴェーバーの時代はまだ静態論会計であったことを忘れてはならない。棚卸法によって算定した期首純財産と期末純財産の差額を出すことで利益を計算したから、期末の純財産(=資本)の変動がどうなるかを考えてみて、取引は行われていたのである。《つまり、その行為は、物的ないし人的な財貨や用役を営利手段として利用する計画的な営みのなかに組み込まれ、そして貸借対照表の方式にしたがって算出された、個々の企業の貨幣的価値あるいは資産の最終収得額が、(中略)決算期に「資本」を、すなわち、交換による営利のために費やされた物理的営利手段の貸借対照表上の評価価格を超過する、そのようなものとならねばならない》という。これは期末資本―期首資本で利潤の計算が出来きて、その利益が常にプラスになってないとダメという意識が生まれているのが資本主義である、ということを言ってるだけである。《肝要な点は、近代的な簿記によってであれ、素朴で表面的なやり方によってであれ、貨幣額で表現される資本計算が行われる》ことであると、ヴェーバーは言う。ここでは(おそらく想定しているのは複式)簿記が合理化されたものの一つとして挙げられている。

  このような資本主義の定義を掲げたあと、ヴェーバーは、西洋近代において特別な種類の資本主義が発達したという。それは《形式的に自由な労働の合理的、資本主義的な組織》である。つまり家でやる仕事と完全に分離した労働市場の成立である。この”家政と経営の分離”という事実と、これと密接に関連する”合理的な簿記”の二つが西洋に特有のものであって、この2つのものがあって資本主義と企業が成立したともいえる。”精密な計算”は、《自由な労働を土台としたばあいにのみ可能であった》。精密な計算から、”計測可能性”が生まれ、これはまさしく合理的なものなのである。

  さて、これまで西洋社会が合理化の軌道にそって特殊化された社会だとみてきた。この徹底した合理化を、合理主義と呼ぶことができると、ヴェーバーは言う。そして、(デュルケムとは異なって)この西洋の合理主義の基礎には、経済がかかわってくる。なので経済的諸条件を見なければならない。ただし、それだけでは十分ではない。なぜかというと、《経済的合理主義は、〈中略〉特定の実践的・合理的な生活態度(エートス)を取りうるような人間の能力や素質にも依存するところが大き》いからである。生活態度の形成にとって重要な要因は、《過去においては、つねに呪術的・宗教的な諸力であり、それへの信仰にもとづく倫理的義務の観念》である。こうした生活態度の形成に重要な影響を及ぼすのが呪術・宗教・およびそこから派生する倫理であるから、ここで世界の諸宗教と西洋の宗教を比較する宗教社会学の必要性が出てくるというわけである。

 もちろん、ヴェーバーは闇雲に諸宗教を見るのではない。《西洋の発展にとって重要だと思われるもののみに、あくまでも目が向けられている》とヴェーバーは断っている。そして、その誤りがあれば、《やがては「乗り越え」られねばならぬということ》であると彼は自覚している。

 ヴェーバーの取る手法には、今日様々な欠点があるのは確かだろう。自らが客観的・科学的だとヴェーバーは論じながら、主観的に科学の線引きをしたりしている。また、ある程度の合理化は西洋にだけ見られるものではない。明治維新後、西洋とは様々な違いがありつつも日本が遅れながらも、西洋諸国と並ぶ大国となったことはヴェーバーの手法では説明できないであろう(*2)。ただし、それでもここに示されているヴェーバーの考えは、今日の宗教学、あるいは社会学に多大な影響を与えてきて、また与え続けている考えに違いない。ヴェーバーが言うように、乗り越えるためにも、ヴェーバーの著作を読む必要性があるだろう。序言だけで結構な量になってしまったが、また続きの『世界経済の経済倫理 序論』についても書ければ書きたいと思う。(本文終了



*1 今の日本の財務会計の利益概念とも相通ずるところがあると思ったので、財務報告の概念フレームワークの考えを援用した。
*2 ただし、ヴェーバーとデュルケムの立場を受け継いだアメリカの社会学者ロバート・ベラー(Robert.N.Bellah,1927-)は江戸時代の日本の宗教・倫理・経済に着目して、日本の発展を説明する論文を出している。

参考文献
M.Weber『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』中山元訳、日経BP社、2010年/大塚久雄訳、岩波文庫1989年
Maurice Merleau-Ponty『弁証法の冒険』滝浦 静雄編纂、みすず書房 1972年

テーマ:文明・文化&思想 - ジャンル:学問・文化・芸術

ジャン・ジャック・ルソー『学問芸術論』

学問芸術論 (岩波文庫 青 623-5)学問芸術論 (岩波文庫 青 623-5)
(1968/12/16)
ジャン・ジャック・ルソー

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※《》は本書からの抜粋である。

本書『学問芸術論(論説部分)』は、ルソーが1750年のディジョンのアカデミーの懸賞論文「学問と芸術の復興は、習俗の純化に寄与したか、どうかに、について」意見を述べたものであり、またルソーの処女作でもある。短い序文に、学問・芸術と習俗との関係を歴史的に考察した第一部、そして本論と言える、ルソーが生きた”現代”における学問・芸術の復興(今日ではルネサンスと呼ばれる現象)がどのような影響を与えたか、について考察した第二部で構成されている。

  第一部では、過去に学問・芸術が栄えた社会において、習俗、特に徳はどうなったかが書かれている。ルソーの論点を要約すると次の通りである。学問・芸術が栄えるにつれ奢侈が増え、肉体は虚弱化し、社会状態の荒廃が生まれる。徳は見せかけの悪徳がはびこり、桎梏(*1)から逃れられず、人は隷属状態に置かれ、頽廃する。では、学問・芸術が栄えていない対照的な社会ではどうだろうか。そこでは肉体の強化が目標とされ、《人は生まれながらにして有徳であり、国土の空気さえ徳を刺戟するように思われる》とルソーは言う。そして勝利をおさめるのは、常に後者であったとも言う。ルソーが念頭において対比しているのが、学問芸術の進んだアテナイと素朴ながら力強いスパルタ、またローマとゲルマン人等である。未開と思われる社会にこそ、真の自由があるという主張は、後の『人間不平等起源論』や『社会契約論』にも引き継がれるいわばルソーの根本テーゼである。

  第二部では、学問と芸術の復興が社会に及ぼした影響について述べられている。学問と芸術は無為・悪から生まれ、さらに新たな無為や悪を生み出すという。ここで悪に含まれるのは、時間の浪費、奢侈、習俗の堕落、徳の腐敗などである。だが、ルソーはそうでない真の学問があるともいう。真の学問とは、天賦の才を持った有能な人(例:フランシス・ベーコン、デカルト、ニュートンなど)によってのみ、築かれるべきであり、そうすることにより、徳の学問、素朴な魂の崇高な学問となるという。

  今日において、本書を見て、ルソーを批判することは容易い。後のルソーが認める通り、論理的な飛躍はあるし、感情によって書きなぐられたような文章であることは間違いない。またルネサンスが社会に与えた正の影響というものもいくらでも思いつく。だが、そのような断罪はここではやめよう。この作品の現代性などについて、少し触れてみたいと思う。

  第一部において、ルソーは、《彼(ソクラテス)は自分の弟子たちやわれわれの子孫への教訓として、彼の徳行の模範と思い出だけを、彼が行ったように残すことでしょう。このようにして、人間を教育することが立派なのです》と述べる。教育の重要性を説く文章でもあるが、それが徳と不可分であること、それはエミールのテーマである。

  今日のメディア論を先取りしてるともいえるルソーは文章を残している。印刷術が《人間精神の不条理を永遠化する技術》であり、それにより、《ホッブズやスピノザのような人々の危険な夢想が永久に残る》とも言う。こうしたメディアに対する関心は、ルソーの独創であろう。

  このようなルソーの思想の根底にあるのは、現代(近代)人への不信とそれにもかかわらず、将来の人間への期待である。このような考え方は、サンシモン・フーリエ・プルードン・マルクスなどに引き継がれている。また、前者の現代人への不信とまたルソーの現代社会への不信というのは、構造主義をはじめとする、フランスの現代思想にも現れているといえよう。ただし、現代思想の営みは、(ミシェル・フーコーを除いては、)懐疑を抜け出していないように思われる。それは将来に対する不信があるからであろう。構造主義の大家であったC・レヴィ=ストロースがルソーに対して共感を抱くのは、故なきことではないのである。

  ルソーはモンテーニュの後に現れたエピステモロジー(*2)の典型人ともいえる。ここでは仔細に立ち入ることはしないが、また別の部分で述べられたらこのテーマは述べたいと思う。

*1 桎梏…自由を奪うもの
*2 エピステモロジー…認識論などと訳されるが、これではなんだかよくわからないと思う。簡単にいうと、ある時代の人が生きる背景に思想があるとすると、その思想の側から学問・科学を批判するという立場がエピステモロジーである。

『宗教の見方』人間について考察する際に、人に勧められる本

あなたは「人間」といったものについて、考えるとき、人に勧められる本をお持ちだろうか。

  私には、そんなに多くの本を思い浮かばないが、次の本は自信をもって勧められるものである。レビューについてはアマゾンで書いたので、ここでは補足的なことを書こうと思う。

宗教の見方: 人はなぜ信じるのか宗教の見方: 人はなぜ信じるのか
(2012/09/14)
宇都宮 輝夫

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  昨今の日本で宗教というと、どうも胡散臭さがあるかもしれない。人から金をだまし取ったりする宗教、高尚なことを説きながら乱れた性生活を行う教祖、あるいはイスラームの原理主義。こういった事実を見せられると、宗教とは障害であって、それを信じている人は馬鹿だと思う人も多いだろう。

  しかし、世界的に見て、そのような宗教観を持つのは日本人くらいのものである。実際、日本人にしても、特に神や仏を信じていないというという人でも、葬式をあげないと罰当たりだと思ったり、クリスマスを祝ったり、初詣に行ったりする。自分が信じていないと思っていても、それは信じていると見なされることがあるし、実際には全く信じていないわけではないのである。

  有史以来、宗教や宗教に類するモノほど、人類史にわたって普遍的な精神的事象は稀である。この本は、そういった宗教のことについて、徹底的に、またいろんな角度から思考し分析することを行った書である。

  ここでは仔細を見ることを省くが、一点だけ重要だと思うことを指摘しておこう(それはすべての人間にかかわる問題だからである)。本書の第5章のタイトルは、《信じるとはどういうことか》である。この章の後半では、いわゆる信の構造といったものが取り上げられていると言えるだろう。我々は子供(小学生以下のことを思い浮かべるのが良い)のとき、様々なことを教えられる。教えられることを知として体得するわけだが、そこには先生に対する信頼がなければ、知として成りたたない。換言すれば、先生の言うことをある程度以上確かなものとして信じていないと、知識とはならないのである。先生が言うことがすべて信じられないなら、例えなあそこに走っている赤い車は消防車だよ、と教えたとしても、それは何にもならない。そういった点で、知は信に基づいている。

  また懐疑もある程度の知がないとできない。無から疑うことは生まれないのである。我々は通常、先生を疑うことなく、知識を得ている。もちろん、先生を疑うことがあるかもしれないが、それは親なり別の人なりが、あの人は信頼ならないから疑いなさいという一種の知を教え込まれた場合だけである。そこにも、知があり、また親への信がある。「あの人が言ったことは本当だろうか」と疑うのは、知識を得た後になってからである。そうした点で、知は疑に先行し、信は知に先行するのであるから、信は疑に先行するのである。

  こうした《私たちが一つひとつの学習を通じて形成されていった信念の体系》をウィトゲンシュタインは「世界像」と呼ぶが、どんな場合でも、掘り下げていくとこういった世界像に行きつく。こうした世界像に影響を与えるのが、宗教そのものであり、また色んな習慣である。そうした世界像とは、根拠づけられない最後の砦のようなものである。

  実際、得るものが大きいと思うので、是非手に取って読んでみて欲しい。

美月先生の『徹底攻略 ネットワークスペシャリスト教科書』

徹底攻略 ネットワークスペシャリスト 教科書 平成25年度 (ITプロ/ITエンジニアのための徹底攻略 Tettei Kouryak)徹底攻略 ネットワークスペシャリスト 教科書 平成25年度 (ITプロ/ITエンジニアのための徹底攻略 Tettei Kouryak)
(2013/02/22)
株式会社わくわくスタディワールド 瀬戸美月

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“和泉のタント”名義でアマゾンにレビューを書いたが、この本の良さについて書ききれていないので、少し補足的なことを書こうかと思います。

*《》で括られているのは、本書からの直接の引用である。

   本書は文字通り、IPAが行っている情報処理技術者試験のネットワークスペシャリスト試験(以下「NW」、と言う)のテキストである。情報処理技術者試験の本では、一般的にはテキストと問題集が分かれる傾向にあるが、本書は両者が一体となっており、本書を用いることで、INPUT(学ぶこと)とOUTPUT(問題をやること)とをバランス良く行うことが出来る。とはいえ、本書だけではNWの過去問を少ししかできないので、その他の問題集(たとえば「ネスぺ23 本物のネットワークスペシャリストになるための最も詳しい過去問解説と合格のコツ」や各種過去問題集など)で補う必要はある。過去問演習は最低3~4年分はこなしておいたほうがよいというのが、NWの心得みたいなものなので、それはきっちりこなした方がよいだろう。

  さて、NWを勉強する上で、最も役に立つのは《実務だけではなかなか身につかない、プロトコルなどの仕組みやネットワークの原理に関する知識を得ることができるので、業務でも応用がきくように》なること、である。合格率は決して高い試験ではないので、やみくもに勉強しても通る試験ではない。本書では、合格のポイントとしてNWを受ける上での必要なことが触れられている。《自分の現状を見て、ゴールまでに必要な勉強を考え、それを実践していく》ことができれば、合格は近い。シラバス等だけ見ると、試験範囲が広すぎて嫌になるが、本書では出題傾向に合わせて整理してくれているので、そんなことはなくなった。

  今までのNW対策本は、INPUTするための知識が古すぎたり、情報量が少なすぎたりして、初学者向けのものが余りなかった。本書はそうした状況を打破する力作である。たとえばベーシック手順やHDLC手順といった、古典的な論点には触れていない。確かに午前問題での出題可能性はなきにしもあらずだが、午後試験で問われることがないので、今では使われていないプロトコルの知識などはばっさり切り捨ててくれている。また、詳しすぎず、なおかつ略しすぎず、試験に必要な知識などを整理してくれていて、利用者が辞典的に使うのにも便利な索引ももちろんついている。

  ただ、一つ補足して言えば、わかりやすくしているので、プロトコルの詳細な知識まで書ききれていないので、プロトコルの基礎的な部分は本書で確認して、詳しいところはネットや他の書籍を活用して知るのが良いだろう。そのためには「マスタリングTCP/IP 入門編 第5版」等の書籍が役立つと思う。

 情報処理技術者試験を受けるメリットなどについてもまた書きたいと思う。
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